今回のコロナで誰もが考えることになった、オリンピックのあり方。
写真家、杉本博司さんの案に一票投じたい!

これからは、発展途上国のみの開催としてはどうだろう。貧しい国の社会のインフラを豊かな国が援助する。選手村は大会後に病院、スタジアムは運動付きの学校になるように設計するのだ。

日本経済新聞

2004年、当時働いていた会社の上司のお付き合いある方に頼まれて、翻訳&デザインの仕事を本業の合間にこなした。その内容というのは、柔道の山下さんとアテネ市長が共同で五輪期間中の休戦を呼びかける広告を作るというもの。
当時も紛争は各地で起きていたけれど、特に記憶にあるのはその前年に決行された、アメリカのイラク進攻。イラクの大量破壊兵器保持を大義名分とした『衝撃と畏怖』。

同時テロのあった9月11日、私はアメリカで暮らしていた。人の生き死には気まぐれで選んだトランプカードのように、特別な理由なんて見つからないんじゃないかと思う。あのテロの数週間前、訪れたホームパーティーで挨拶を交わした主催者カップルの彼女は、本来であれば9月11日の朝、ツインタワーに激突したあの便にCAとして勤務するはずだった。けれどあのパーティー後、二人は別れ、彼に振られた彼女はショックのあまり仕事を欠勤したと言う。彼女は彼に振られたことで命拾いをした。振られたこと、あの日の朝のこと、自分の代わりにシフトに入った同僚のこと、それら全ては彼女のその後の人生を形成するパーツとなって、今も彼女の中で生き続けていると思う。

話を戻して、2004年のアテネオリンピック。あの時、世界は誰もがオリンピックの本来の意義、オリジンに戻ろうという意識が高まった年だったと思う。
ほぼボランティアで頼まれた仕事だったけれど、あの会社で仕事をしたどの案件よりも私にとっては記憶に残っている。追加の頼みで、あまり時間を掛けなくても良いからできれば挿絵も欲しいとの要望があり、兵士のイラストを添えた。

それから13年後、オリンピック勉強会であの広告のことを話す人が現れた。その人は大学教授をしていて、あの広告を教材として使っていると話してくれた。私の記憶には兵士と地面に置かれた銃のイラストだった。しかし彼曰く、イラストは兵士の片手に聖火リレーのトーチ、兵士の影にはPEACEの文字、そして地面に置かれた銃だったと言う。確かに兵士に何かを握らせた記憶はあったけれど、私にとってはトーチでも竹ぼうきでもフライパンでも何でも良かった。
ダメ元でググってみたら、あの広告が出てきた。

五輪期間中の休戦を

そのオリンピック勉強会では教授以外に、1964年の東京オリンピックから五輪に携わってきたと言うオリンピックの専門家との出会いもあった。その出会いがまさかを引き起こした。そのまさかは杉本博司さんの『時の結晶』で語られているように、一流の職人の手によって魂を宿された鉱物が動き始めた瞬間、だったんだなーと今は奇跡的に言える。
私があの日、気まぐれで引いたカードはジョーカーだったのかもしれない。時には弱く、時には強い、リア王にも出てくる道化師。

杉本博司さんのこれからのオリンピック案