『君たちはどう生きるか』の中でコペル君が膝から崩れ落ち、取り返しのつかないことをしたと涙を流し後悔する場面。そして、そのあとコペル君のお母さんが、いつかこの後悔があったからこそと思える日が来るのよと励ます場面。

私にとって21年前の3月20日がまさにその日だったんだけれど、あの後悔があったから今があるとようやく思えるようになった。もちろん、ずっと20年間後悔し続けたということはなくて(それはさすがに頭がおかしくなっちゃうからね)、でもあの時の膝から崩れ落ちる後悔があったから自分の中に譲れるものと譲れないものが確立したのは確か。
つい6年前までは21年前の後悔も記憶の片隅に留まっていたんだけれど、6年前から記憶の箱が開いたかのように徐々に出てきた、と言うよりかは漏れ出してきたと言った方が的確かもしれない。

6年前の2012年にマレーシアから日本に帰国して、仕事を探し始めたけれど6年間も仕事から離れていたからWeb関係の職場へは書類すら通らない。マレーシアでのボランティア経験も採用者からしたら、どうでもいい話。なーんの役にも立たない。半年間の職探しは梨の礫。もー選べる立場じゃない、派遣に登録しようと思っていた矢先、unicefでボランティアグラフィックデザイナー募集の話を夫から聞かされ、まだまだ私には修行が足りないのねと始めたボランティア。
インターンで入ってくる優秀な学生は憧れの国連でのインターンだから、私にとってはキラキラして眩しすぎるくらいだった。質問してくる声トーンまで張りがあって輝いている。
「絵里さんはどうしてここにボランティアで入ったんですか!?」
空から天使が舞い降りてくるのかと思うくらい七色に輝いている。そりゃーそうですよ。国連でインターンするにも試験、面接を経て選ばれた人がやってきますからね。そもそもお役所関係でデザイナー職につこうなんて意識の片隅にもなかった私には、どうして?と聞かれても、インターンが予想している回答なんてないんです。だから正直に言いましたよ。

「マレーシアから戻ってきたらね、浦島花子で、仕事がしたくても面接にも辿り着けなくて・・言ってみれば今が人生のどん底です」

unicefにボランティアしに来て、「人生のどん底、選択肢がなくてここに来ました」って言う人間は他にいないですよね。やる気あるのかよ!って話です。もちろん捕捉しましたよ。「ボランティアをしながらでも生きていけるのは夫がいるから。夫に感謝しています」って。生活に困っていたら当然、ボランティアなんていう選択肢はなかったはずですから。
それからは、何とかここで自分にできることを見つけなければと迷走しながらでもガチでボランティアに取り組みましたよ。国際協力とか難しいことは分からないから、それ関係の本を買って読んではセミナー、シンポジウムに参加してイメージを膨らませて、私ができることは何かを考え続けました。

ボランティアを始めた翌年、友人からの依頼で世界陸上で使うための海外記事翻訳を引き受けることになったんです。私自身も中学・高校と陸上部で、中学の時は部長、高校では副部長を形式的には務めましたからね(後輩からよくど突かれていました・・)。最初は私に陸上翻訳の仕事できるのかな?と思っていたのですが、これがやり始めると競技だけの話ではなく、貧困や差別、紛争と言った話が出てくるんです。まさにunicefで得た知識が生きたんです。それから二年に一度、世界陸上が開催される年になると翻訳の仕事を頂けるようになりました。

2015年の北京世界陸上からだったと思うけれど、記事翻訳をしていると自分が学生で陸上をしていた頃を思い出すようになったのです。なんであの時もっと真剣に走らなかったんだ!先生はあんなに熱心に指導してくれたのに、なんて失礼なことをしたんだ!ムーミン(顧問のあだ名)に土下座をして謝りたい!!とまで。
おそらくそれから、昔の記憶が少しづつ浸み出してきたんです。ある日ハッと気づいたらあの後悔には陸上難民という言葉があったことに気づいて。気づくまで何十年かかってるんだ!って話なのですが・・・肝心なところで鈍いのが私の取り柄なんです(開き直り)。

気づいてからは色々ありました。割愛しちゃいますけどね。陸上と難民というキーワードが徐々に距離を狭めていくんです。そして去年の暮れ近く、二つがごっつんこして、良く言えば砕けてくれました、笑。

今年の3月20日は打ち合わせの後、そこから電車で数駅離れた初台へ行って谷川俊太郎展へ足を運びました。展覧会へ行って初めて知りました。谷川さんは64年の東京オリンピックに関わっていた人だったのだと。彼のような人が関わってくれていて本当に良かった。朝日新聞によると谷川さんは2020年のオリンピックに関してコメントは拒否されているようです。行き過ぎた商業化に呆れている様子だったとか。今度の東京オリンピックにはビットコインに騒ぐ人たちの欲望と似ているところがありますからね。いや、ビットコインに騒ぐ人たちの方がマシかもしれません。

そして谷川さんがこの展覧会のために書き下ろした新たな詩「ではまた」を読んで、恥ずかしながらこのとき詩が絵画と映画を合わせたものだと言うことに気づきました(それだけ自分も年齢を重ねたと言えるのかもしれません)。あの空間で、真っ白な壁に書かれた巨大な詩を読んで、多くの人が感情を持つ人類を愛おしく、また不思議と懐かしく、そしてもの悲しくも感じたでしょう。

3月20日、これで一日が無事終わるように見えたけれど終わることはなかったのです。夜、facebookを開いたら、東京地裁がシリアから逃れてきた4人の難民認定を退けたという記事が目に止まりました。

21年前、カナダで出会ったイラン人は難民としてカナダに辿り着いた後、ピザ屋を始めて10年間、どんなに寒い日でも一日たりとも休むことなく働き、私が出会った頃には3軒目のピザ屋をオープンしていました。サービス業の割には愛想はなく、ただ直向きに一日一日を生きていると言う姿でした。彼はイラン・イラク戦争でイラク兵に捕まり捕虜として護送される中、護送車を運転するイラク兵の青年に向かって
「僕と君は同じ年だ。お互いまだ若い。僕は生きたいんだ。まだ生きたいんだ。だから逃してくれ。お願いだ」と懇願し、彼と同じ年齢だった(22歳か23歳)護送車の運転手は彼を途中で降ろし逃がしてくれました。その護送車を運転していた青年、そしてその青年の家族は果たして無事だったのでしょうか?
それから彼は生きるために必死に逃げ、陸続きの国境を幾つも越えてカナダに難民として渡ったそうです。

たぶんだけどね、あの彼の生きて働く、また次の日も生きて働く、その次の日も・・と云う一見当たり前の姿が私のお腹の底には常にあったんだと思う。日本での職探しの時も、アメリカでふわふわした話に心踊っていた時も、怨霊なのか守護神なのか分からないけれど常にあったんだと思う。その結果、職務経歴書も『その他』の欄ばかりが埋まる不恰好なものになったのですが、笑。でもそのお陰で話のネタだけには困らなくなりました!あとはそれをどうマネタイズするか・・ここが私の弱点。

日本では働き方に悩んでいる人が大勢いるんだから、一度この難民認定について法務大臣と一緒に日本全体でじっくり考えてみたらいいと思う。

裁判所がシリア人の難民認定を退けた。では日本では、だれが「難民」なのか https://www.buzzfeed.com/jp/yoshihirokando/syria-refugee?utm_term=.qxDER5yPNM

3月20日は21年経った今年も『考える日』なのでした。

谷川俊太郎展 詩人と大臣