アメリカ西海岸の一軒家

アメリカ西海岸、15年前のある休日、友人に誘われ海岸沿いにある一軒を訪れました。玄関先で、スラっと170㎝くらいはある長身の、日焼けした体にノーメイク姿の40代後半と見られる女性が出迎えてくれました。
握手をした女性はメリッサと名乗りました。

玄関を入るとすぐ右手にアイランドキッチン、左手にはリビングルーム。
女性はキッチンに入り髪を束ね上げ、床はラフな質感のレンガ色タイル、木製のアイランドカウンター越しに
「今からランチにしょうと思ってバゲットサンドを作っているんだけれど、あなた達も食べる?」
彼女はテキパキと手を動かしながら、つい先日まで一カ月間滞在したアフリカの地で見たもの、そこで感じたことをエネルギッシュに口早に話したかと思うと、落ち着いた口調で
「今度はアフリカを舞台に本を書こうと思っているの」
と言い、ここでようやく私は彼女が作家であることを知りました。

そこに彼女の二人の子ども、中学生くらいの男の子と小学生の女の子が現れ、母親似のはつらつとした娘が家の中を案内してくれました。キッチンと対面するリビングルームの1/3のスペースにはピアノと写真、先へ進んだリビングルーム奥の角には大きな窓ガラスとその前にはソファーが置いてありました。ソファーに座って窓ガラスの外へ目を向ければ、目の前は誰も歩いていないプライベイトビーチと穏やかな海。ひっそりと静寂に包まれた角っこでした。

それから娘は自分たちの部屋へと案内してくれました。玄関を出ると敷地内に敷かれた石畳の道があり、玄関から10歩くらいの場所に木造3階建ての小さな家がありました。2階が女の子、3階が男の子の部屋、広さは8~10畳ほどの格別広いというわけではないけれど、親から独立した子どもだけの空間にわくわくし、24歳のいい年をした私は子どもたちに気づかれないように静かに興奮しました。子どもたちを見守る親は目の前にいながらも、子ども部屋はオランダ風景に出てきそうな温かみと秘密基地的な要素が詰まった子どもの家に、羨ましくも感じました。

その後、メリッサに御礼を言い、その家を後にしました。

それから分かったこと。

彼女のフルネームはメリッサ・マシスン。

メリッサ・マシスン

私が小学生の頃、電車に乗ると扉には指を挟まれないように注意を呼びかけるステッカーが貼ってありました。そのステッカーには人差し指のイラストが描いてあり、そのイラストの人差し指に自分の人差し指をくっつけ、声を震わせながら「イーティー」と小学生らしいバカな遊びをしていました。

メリッサはそのE.T.の生みの親、脚本を書いた人物だったのです。
それからE.T.という文字を目にすれば、思い出すのは地球外生物ではなく、生身の一人の女性。エネルギッシュに話しをしながら、バゲットサンドをザクッザクッと切る、あの彼女の姿が目に浮かぶようになりました。

彼女がE.T.の親だと分かり、あの子ども部屋にも深くうなずきました。彼女あっての、あの部屋だと。

家も私たちがハリウッドセレブの邸宅をテレビや雑誌で見る、高級車が何台もずらりと並び、何部屋もある豪華絢爛なものとは違い、庶民の暮らしではないにしても、特に目につくような高価な装飾品も美術品もないリビングルーム。むしろ簡素とも言える作家らしい端正な佇まいでした。
それもそのはず、E.T.から数年後、彼女はダライ・ラマ14世本人へインタビューを何度も重ね、7年の歳月をかけて書き上げた作品、ダライ・ラマ14世のインド亡命までの半生を描いた映画「Kundun」を世に出した人です。

食べ過ぎ飲み過ぎで太田胃散にお世話になる私とは違ったのです。

そして今回、彼女の最後の脚本となった映画「ビッグ・フレンドリー・ジャイアント」を観る前に、この映画には原作があったのでロアルド・ダールの「The BFG」を読んでみました。姪っ子に絵本を読んであげることはあっても、児童文学を自分のために真剣に読んだのは何十年ぶりでしょう。この数日間、奇妙な夢を見たのはあの巨人の仕業なのでしょうか?物語の締めくくり部分は児童文学ならでは、なんともほっこりします。

それでは、今週にでもE.T.の母の安らかな旅立ちを祈りつつ、映画館へ行ってきます!!

bfg